「心を育み合う関係性」コーチ
西畑良俊(にしはた・よしとし)です。
はじめまして、ということで、自己紹介をさせていただきます。
1980年12月生まれ、埼玉県春日部市出身・在住。3児の父(8歳♂ 4歳♀ 1歳♂)。
今は、「心を育み合う関係性」づくりの研修・話の場づくり、
コーチングなどの個人セッション、
アスリートのメンタルトレーニング、
などをお仕事に、
「一人ひとりがその人らしく輝ける社会の実現」を目指して、
日々、活動させて頂いております。
【YouTubeにて、講演動画など、ご覧いただけます!】
①日テレ『箱根駅伝 ~絆の物語~』
②ペップトーク【30分間の講演】
③『信じる力が子どもを変える』【2019.07@宮崎県警での講演動画】
④『幸せな子どもが育つ大人の関わり』【2017.10@三重県志摩市中学校での講演動画】
今でこそ、華やかに活動しているように見えるかもしれませんが、
20代はうつ病で苦しみました。
それは、生い立ちからのいろいろな問題を抱えきれなくなったことが原因でした。
中学校までは、学級委員長や学年委員長をするなど、「いい子」で過ごしていました。
(両親の不仲から、
「自分がいい子でいれば、両親は仲良くいてくれるかも!?」
と思っていた節があります。)
その反動から、高校では一切勉強しなくなりました。
高校2年の11月に、ふと、「大学受験」を考え、
「いい大学 → いい会社 → いい人生」という方程式が思い浮かび、
「早稲田大学で、箱根駅伝を走りたい!」と思って、受験勉強を始めました。
年明けに、最初に提出したZ会の偏差値は、29だったことを記憶しています。
たまたま、『早慶に受かる勉強法』という本(和田秀樹先生著)を本屋さんで見つけ、
「赤本サンドイッチ方式」という勉強法を知り、早稲田大学だけ5学部受験して、
2つ、受かり、法学部に進学。
競走部の門を叩きました。
1年次、夏合宿は、Aチームの合宿に行かせていただきましたが、
走ることが「義務」になってしまい、心がポッキリ折れる体験をしました。
睡眠薬を飲まないと眠れなくなり、
10月、出雲駅伝には出させていただきましたが、
そこからは、「故障のデパート」状態。
走ってはケガをするの繰り返しで、何とか所属だけして、夢は叶わず、卒業を迎えました。
(後になって、「義務感」(怖れ)で行動していると、いいところまで行って、
最後にうまくいかなくなる、という話を耳に、納得しました)
意気揚々と、「いい会社」に入社したのですが、
今度は、「箱根駅伝」という軸がなくなった日々。
新卒で購入した本のタイトルが、
『定年後の豊かに生きる100の知恵』
みたいな本でした。(これ、本当です)
「何のために生きるのか!?」ということが見えずに、
お酒を飲んでは記憶をなくす日々。
(当時は8割、記憶をなくしていました。
翌朝、スーツで目覚めることなんてザラでした。。。)
だんだんと、マンションのベランダから下を見て、
「ここ(13階)から飛び降りたら楽になれるかも!?」
という、最悪の想像をするようになり、
「このまま仕事をし続けても、20年後まで生き続けられない」
と思うようになり、2年で退社させていただきました。
その後、ニート・フリーターを経験。
教師の卵として、学校の先生になろうと、通信制の大学に入り直し、
合わせて、全国各地の、熱い教師の卵や、先生方とお会いする中で、
「絶対いい教育を提供してやる!」という想いは強くなる一方で、
いざ、学校現場に入ると、「ここで自分はやっていけるんだろうか!?」と思うことが多くなり、
最終的には、3ヶ月くらい、土日は寝たきりで起き上がれないような状態になっていきました。
(このときのことは、記憶が曖昧でほとんど覚えていません。
学校には何とか行っていたような気がしますが、手が震えたり、
目の前に暗幕が降りたような状態になったり、とにかく大変で、
当時、付き合っていた彼女(今の妻)が、
「あなた、絶対うつ病だから、一緒に病院に行こう」
と言ってくれ、病院に連れて行ってくれたことだけは記憶しています)
身体に力が入らない。
大好きだった本が全く読めない。
土日はとにかく起き上がれない。
薬を飲んでも楽にならない。
「このままどうなるんだろう?」という不安と戦いながら、
日々を過ごしていたように思います。
ちょっと元気だった時に、
「この病気が、何かメッセージを伝えているとしたら、どんな意味があるんだろう?」
と、『夜と霧』の著者・ヴィクトール・E・フランクルの考えが浮かびました。
「『教師にはなるな!』ってことだ!」
と思った僕は、その日から、
「じゃあ、どうやって生きていきたいんだろう?」
と考え続けました。
そこで出てきた一つの答えが、
「田舎に行って、顔の見える関係で、自給自足に近い暮らしをしよう」
ということ。
その辺りのことは、以前、こちらに書きました。
「やりたいことがない若者は、田舎へ行こう!」
新潟・粟島で、おばあちゃんたちからの丸ごとの「存在に対する承認」に活力をいただき、
「自分は生きていていいんだ」
と思え、自分なりの考えで、どんどん行動していけるようになっていきました。
3年間活動して、本当は、あと10年くらい活動したかったのですが、
妻の願いもあって、島を出ることに・・・。
縁あって、「みやざき中央新聞」(現『日本講演新聞』)で働くことになり、
九州・宮崎の地へ、最初の3ヶ月間は単身赴任。
2012年5月に誕生した息子と妻が、7月下旬から宮崎にやってきて、
家族3人での生活が始まりました。
新潟・粟島で、おばあちゃんたちからされた「存在承認」を、自然にできるようになっていたからか、
社長・編集長、周りの方々からも、あっという間に認めて頂き、
1年後には「編集部次長」として、楽しく、取材・編集・執筆のお仕事をさせていただいていました。
そんな折、取材を通じて、プロコーチの方々と出会い、
「自分みたいに落ち込みがちな方を、コーチングで救えるんだ!」
「こんな温かな方々のような存在になりたい!」
と思ったことがきっかけで、
2013年4月、コーアクティブ・コーチングの学びの旅をスタート。
コーチングの学びと、自分自身がコーチングを受ける中で、
「パソコンと向き合う仕事も悪くないけれど、もっと、人とリアルで向かい合い、
その人の『らしさ』を引き出す存在として生きていきたい」
と思うようになり、
2013年3月に、退社の意を伝え、
2015年1月の、プロコーチ資格(CPCC)取得前の、
2014年10月に独立。
独立後、一時期は、稼げない時期もあり、あっという間に貯金300万円はなくなりましたが、
今では、
①まずは自分がご機嫌になる=メンタルトレーニング
②しっかりと話を聴く=コーチング(傾聴)
③想いを伝える=ペップトーク(伝え方)
の3本を柱に、「心を育み合う関係性」を、家庭に・職場に・地域に、つくり、
日本社会を、より豊かに幸せにしていくことに貢献していければと思っています。
長くなりました。
こちらのコラムでは、幸せに豊かに、今を楽しめる「お母さん・お父さん」が増えることを願って、
「イライラ・クヨクヨしない『ごきげんな子育て』」
について、いろいろと書いていけたらと思っています。
『こんなことで悩んでいます』
『子どものこういう状態、どう考えたらいいんですか?』
『自分自身のことで、どうしたらいいか教えてください』
など、何か質問や相談などあれば、
お気軽に、コメントかメールを頂ければと思っています。
メール:office.imacoco@gmail.com
ほんの少しのおせっかいから、世の中が少しでもよりよくなることに、
貢献していけたらと思っています。
長文、お読み頂き、ありがとうございます。
今後とも、どうぞよろしくお願い致します。
(次回からは、もうちょっと短くまとめるようにします(^_^;))